| うましもの探訪 |
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| Vol.3 手づくりおやつは母の温もりの味
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五十年前の日本は昭和三十一年、終戦後の復興が日々進み、食糧事情も少しずつ改善されてきたころでしょうか。当時、私は広島から京都の中心地へ引っ越して三年ほど経ち、障害をもった長男と生まれて間もない次男、そして仕事に忙しい夫と病弱な姑の世話、さらに自宅で始めた「コタケ料理研究会」という料理教室の指導で超多忙な毎日。当初は夫の会社の若いお嬢さんたちなどに家の台所で教えていたのですが、だんだん噂が広まって最盛期には三百人ぐらいに増え、とても大変でしたが楽しい時代でした。私は最初からその日の材料を計って用意せず、生徒さんたち自身に醤油でも砂糖でもなんでも計って準備からしてもらう方針だったので、それが逆に自宅で役に立つと好評だったようです。
私は五十年前のおやつといえば、乳母日傘で育った姑のために日に二度お茶をたて、和菓子をつくって出していたことを思い出します。上品な姑でしたので、戦後の物のない時代でも、お茶事がしたいといわれ、嫁としてできませんとはいえない時代でしたから、懸命にやりくりして材料を揃えた思い出があります。子ども達のおやつには、今のように材料が豊富ではなかったのですが、それでも家庭でいろんな工夫をしてつくってやりましたね。
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水ようかんの寒天はすぐに溶けてすぐに固まるので、おやつに限らず手軽な材料でした。当時は缶詰の小豆、それも甘みがついたものなどありませんから、どこの家庭でもよくコトコトと炊いておられましたよ。子どもは待ちきれなくて、炊きたてにざらめの砂糖をまぶして食べさせてもらったという方も多かったようです。 |
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| 「おいもさん焼いたん」は、サツマイモを蒸かしてつぶし、そこに当時はぜいたくでしたがバターを加えて練りました。これだけでもおいしいのですが、私はそれを六方焼きのようにさらに焼くのが好きでした。 |
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ペロペロとは、私の郷里・広島でそう呼んでいたのですが、小麦粉を水で溶き、いまのクレープのように薄く焼いて、いろんなものを包んで食べるものです。ぺろんとしているのでそう呼んだのでしょう。七輪にフライパンで焼いた記憶もありますね。
物が少ない時代でしたが、その代わりなんでも手づくりで親の温もりある愛情が感じられた時代だったように思います。 |
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| お話と料理/坪山始子さん |
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| 広島県生まれ。昭和二十九年に夫の転勤で京都へ。台所で知人に料理を教えたことをきっかけに「コタケ料理研究会」を主宰、最盛期には三百人以上を教え五十五歳で引退。若い頃から邦楽をたしなみ、文楽、歌舞伎に造詣が深い。現在も竹本住大夫、中村梅玉の追っかけとして全国へ。また趣味のろうけつ染めによる着物づくりや、陶器の絵つけなど八十一歳とは思えないパワフルな日々を過ごす。
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